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東京地方裁判所 平成9年(行ウ)95号 判決 1998年5月27日

原告

甲野花子

右訴訟代理人弁護士

南雲芳夫

関博行

野本夏生

被告

中央労働基準監督署長古屋英明

右指定代理人

中垣内健治

高田秀子

池田俊夫

本間文男

太田文江

主文

一  被告が、原告に対し平成三年五月二七日付けでした労働者災害補償保険法による遺族補償給付を支給しない旨の処分を取り消す。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

主文第一項と同旨。

第二事案の概要

本件は、業務上の事由により死亡した被災者(乙山一郎)の内縁の妻である原告が、労働者災害補償保険法一二条の八第二項、一六条の二第一項に基づき、遺族補償給付及び葬祭料の支払を請求したが、被告が平成三年五月二七日付けで不支給決定をし、東京労働者災害補償保険審査官は、原告の審査請求に対し、被災者の死亡が業務に起因するものであること及び葬祭料の受給権が原告にあることは認めたものの、被災者と法律上の妻月子との婚姻関係が実体を失っているとはいえないとして、原告の遺族補償給付の受給権を否定して、被告の不支給処分のうち、葬祭料を不支給とした処分だけを取り消し、遺族補償給付を不支給とする処分に対する審査請求を棄却したため、原告が再審査請求をした上で、三箇月を経過しても労働保険審査会の裁決がなかったとして、被告の遺族補償給付を支給しない旨の処分(以下「本件処分」という。)の取消しを求めた事案である。

一  前提となる事実(争いのない事実のほか、証拠により認定した事実を含む。証拠は各項の末尾に挙示した。)

1  乙山一郎(昭和一三年五月一二日生、以下「一郎」という。)は、昭和六三年二月一日に有限会社松原工業所の従業員となり、同年四月二〇日午後九時ころ、清水建設株式会社が元請事業者として施工する第二太陽ビル新築工事現場において、有限会社松原工業所の配管工として七階の便器取り付け作業中に脳出血を発症し、同年四月二二日午前九時四〇分ころ、脳出血による脳ヘルニアのために死亡した。

2(一)  原告は、平成元年四月二六日、被告に対し、亡一郎の死亡が業務上の事由によるものであるとして、労働者災害補償保険法一二条の八第二項、一六条の二第一項に基づき、遺族補償給付及び葬祭料の支払を請求した。

被告は、平成三年五月二七日、亡一郎の死亡が業務上の事由によるものとは認められないとし、また、原告には労働者災害補償保険法に基づく保険給付の受給権がないとして、遺族補償給付及び葬祭料の不支給処分をした。

(二)  原告は、平成三年七月一一日、東京労働者災害補償保険審査官に対して審査請求をした。

東京労働者災害補償保険審査官小林敏郎は、平成八年一〇月三一日、亡一郎の死亡が業務に起因するものであること及び葬祭料の受給権が原告にあることは認めたものの、原告の遺族補償給付の受給権を否定して、被告の不支給処分のうち、葬祭料を不支給とした処分だけを取り消し、遺族補償給付を不支給とする処分に対する審査請求を棄却した。

(三)  原告は、平成八年一二月三日、右決定を不服として労働保険審査会に対して再審査請求をした。同日から三箇月を経過しても労働保険審査会の裁決はなかった。

3  亡一郎と月子との婚姻関係

亡一郎は、昭和三九年一二月、丙川月子と見合結婚をし、昭和四〇年三月二二日、月子と婚姻の届出をした。昭和四一年四月四日両名の間に長女雪子が出生した。亡一郎と乙山月子(以下「月子」という。)は、結婚当初から亡一郎の母乙山M子(以下「M子」という。)と同居していた。

亡一郎は、友人と自動車整備工場を始めたが、友人のために多額の負債を負って全財産を失い、昭和四二年九月に家族とともに北九州市小倉南区葛原に転居した。半年後債権者が葛原に取立てに来るようになった。亡一郎は、そのこともあって、その当時から月に半分くらいしか帰宅しないようになった。亡一郎に女性関係があったため、月子は、同年、亡一郎との関係修復を目的として離婚調停の申立てをしたが、亡一郎は、出頭せず、月子は申立てを取り下げた。月子は、昭和五二年にも離婚調停の申立てをし、亡一郎も出頭したが、離婚の合意に至らず、月子は申立てを取り下げた。

亡一郎は、昭和四六年ころまでは生活費の一部及び家賃相当額として月三万円を月子に持参していた。月子は、右の金員では生活費が不足するので、昭和四三年二月ころから働きに出ていた。亡一郎は、昭和四六年に母M子及び妹S子とともに北九州市小倉北区真鶴に転居し、以後は月子に対し、家賃相当額として月一万二〇〇〇円を送金していた。送金は、月子が葛原に住んでいた間続いた。月子は、昭和五四年九月三〇日まで葛原に住んでおり、その間亡一郎は時々月子を訪れていた。

月子は、家主に葛原の借家の明渡しを求められたので、同年一〇月一日北九州市小倉南区大字吉田(後に北九州市小倉南区上吉田に住居表示が変更された。)の市営住宅に転居した。以後、亡一郎は月子を一度も訪れることがなく、月子と亡一郎とは完全な別居状態となった。月子は、社会福祉法人「A園」に寮母として働いていたが、上吉田の市営住宅に転居してから生活保護を受けるようになった。

亡一郎の母M子は、自分名義の郵便貯金口座に振り込む方法で、月子に養育費を送金していた。右口座の郵便貯金通帳は月子が所持していた。送金は、昭和五四年一二月一〇日から昭和五八年六月七日まで続き、一回当たり一万二〇〇〇円、四万円が多く、一箇月当たりでは一万二〇〇〇円から二万円程度であった。最後の昭和五八年六月七日は五〇〇〇円にとどまった。この年は雪子が高校を卒業する年に当たった。

月子は、M子が上富野の家を明け渡した後は亡一郎の所在が全く分からなくなり、亡一郎と月子とは、右の養育費の送金を別とすれば、音信不通となった。

月子は、亡一郎が死亡したことを原告から人を介して連絡を受け、亡一郎の葬儀に雪子とともに駆けつけており、最後まで籍を抜くつもりがなかった。(<証拠略>)

4  真鶴に転居後の亡一郎及び母M子の状況

亡一郎は、前記のとおり昭和四六年に母M子及び妹S子とともに北九州市小倉北区真鶴に転居した。亡一郎は、その後昭和五〇年六月一〇日に北九州市小倉北区真鶴<以下略>に住所を定めた旨の届出をし、昭和五四年四月九日に同所から転居して北九州市小倉北区上富野<以下略>に住所を定めた旨の届出をし、昭和五九年三月一二日に北九州市小倉北区黒原<以下略>に住所を定めた旨の届出をし、昭和六一年一月三〇日に北九州市小倉北区三郎丸<以下略>に住所を定めた旨の届出をしたが、実際には昭和五六年一一月以降北九州市小倉北区の原告のマンションで原告と同居していた。

亡一郎の母M子は、昭和五八年六月に亡一郎の個人企業である清和工業が倒産するまで上富野<以下略>に住んでいたが、右倒産により家を明け渡し、鹿児島の娘夫婦(亡一郎の姉)の家に引き取られ、その後門司に住む娘夫婦のところで世話になったりしたが、昭和六〇年三月から一〇月にかけて胃がんのために北九州中央病院に入院し、原告は、亡一郎の嫁の立場からM子を看病した。原告は、亡一郎の妹とともにM子のためにマンションを探し、自宅の近くの三郎丸<以下略>のマンションを賃借し、退院後M子を住まわせた。原告は、M子が病後の一人暮らしであったので、毎日食事の世話や身の回りの世話をした。M子は、昭和六一年五月に再度入院し、原告は付き添って看病した。M子は同年七月二八日死亡した。

(<証拠・人証略>)

5  亡一郎と原告との内縁関係

原告(昭和一二年三月一一日生)は、同棲していた男性との間に長男太郎(昭和三五年六月二九日生)をもうけたが、婚姻の届出をしないままその男性と別れ、以後クラブで稼働しながら、長男太郎を育て、昭和五四年一二月には価格一二五〇万円の自宅マンションを自己資金六〇〇万円を出して購入し、同所で太郎と生活していた。昭和五五年一一月ころ、勤めていた店に客として来た亡一郎と知り合い、親しい間柄となって昭和五六年一一月には原告のマンションで同居するようになった。原告は、同居を始める前太郎に亡一郎を紹介し、太郎の納得を得て同居を始めた。原告は、昭和五七年ころ、亡一郎が資金繰りに苦しみ、M子を住まわせていた上富野の家を債権者に取られそうになっていたため、亡一郎に対し、五〇〇万円を援助した。

亡一郎は、個人企業である清和工業を営んでいたが、昭和五八年六月に倒産し、所有していた上富野の家も結局失った。亡一郎は、その後九州英工業という名称で管工事の仕事を行い、原告の自宅を連絡場所としていた。亡一郎は、昭和六一年九月に出稼ぎに出て、沼津、所沢、川崎を転々としたが、三箇月から四箇月に一度は原告の自宅に帰っていた。亡一郎は、出稼ぎに出てからは、原告に対し、自分の口座の預金通帳と印鑑を預け、その口座に生活費を送金していた。送金の状況は、昭和六一年一一月二六日に三〇万円、同年一二月一八日に一四万円、同年一二月三一日に三〇万円、昭和六二年二月二五日に一〇万円、同年三月二六日に一五万円、同年四月二七日に一〇万円、同年五月七日に二五万円、同年六月三日に八万円、同年六月二七日に一〇万円、同年七月二七日に一五万円、同年九月一六日に七万円、同年一一月七日に一〇万円、同年一二月一一日に一〇万円、昭和六三年一月二七日に一〇万円、同年二月二九日に一五万円、同年四月一日に一〇万円であった。

亡一郎は、原告と同居を始めてから昭和六一年九月に出稼ぎに出るまでの間も、仕事で収入がある限りは、原告に生活費を渡していた。

原告は、亡一郎の内縁の妻であり、婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあった。

(<証拠略>、原告本人、弁論の全趣旨)

二  争点

亡一郎と法律上の婚姻関係にあった月子との関係は、婚姻の実体を失って形骸化し、かつ、その状態が固定化して近い将来解消される見込みがなかったといえるか否か。

第三争点に関する当事者の主張

一  被告の主張

1  労働者が業務上の事由により死亡した場合には、その遺族に対し遺族補償給付として遺族補償年金又は遺族補償一時金が支給される(労働者災害補償保険法一二条の八第一項四号、一六条)が、この給付は、労働者の死亡によって失われた同人に扶養されていた家族の被扶養利益を補てんしようとするものである。

遺族補償年金を受けることができる遺族の範囲を定める労働者災害補償保険法一六条の二第一項は、妻及び夫について、「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者を含む。」と規定しているが、その趣旨は、単に婚姻の届出をしていないだけで、実質は何ら法律上の婚姻と変わらない共同生活を送っている者にもその実情に即した保護を与えようとするにあるから、右内縁関係が社会一般の倫理観に反し、右保護を与えるのにふさわしくない場合は含まれないと解するべきである。したがって、法律上の配偶者がいるにもかかわらず、第三者と事実上の婚姻関係に入った者、いわゆる重婚的内縁関係にある者は、右内縁関係が公序良俗に反するため、一般的には右規定に該当しないものと考えられる。しかしながら、被災者に法律上の配偶者があったとしても、その婚姻関係が実体を失って形骸化し、かつ、その状態が固定化して近い将来解消される見込のないとき、すなわち、事実上の離婚状態にある場合には、重婚的内縁関係にあった者に遺族補償給付を支給しても、必ずしも社会一般の倫理観に反するとはいえないから、このような例外的な場合には、同項の右規定に該当し、同法に基づく遺族補償給付の受給権者となり得ると解される。被災者と法律上の妻との間に婚姻関係を解消することについての合意があり、双方の積極的な意思が合致して事実上の離婚状態を作り上げている(社会通念上夫婦の共同生活と認められる関係が存続しなくなっている)ときに、右の例外的な場合に当たるものというべきであるが、重婚的内縁関係が一般的に公序良俗に反する以上、右の例外的な場合に当たるとの判断は、できるだけ狭く行うべきものであり、これを客観的に確認し得る事情がある場合に限るべきである。仮に、双方に婚姻関係を解消するにつき積極的な意思の合致までは不要と解するにしても、法律上の配偶者を保護する必要性にかんがみれば、法律上の配偶者が長期間行方不明や生死不明にあったり、他の異性と重婚的内縁関係を継続している場合など、右配偶者に対する扶養が実質的に問題にならない場合や、右配偶者が被災者との婚姻関係を維持、修復しようとする意思を完全に喪失し、消極的にではあるが右婚姻関係の解消につき追認していると認められる場合でなければならないと解される。

2(一)  亡一郎と月子は昭和四六年に別居したとはいうものの、それは専ら亡一郎が自ら負っている債務の取立てから逃れるためであったこと、月子が二度の離婚調停を申し立てているにもかかわらず、亡一郎はそれに応じていないこと、亡一郎は、死亡するまで約二四年間月子との法律上の婚姻関係を解消する努力を一切していないばかりか、長女雪子が高校を卒業した年の六月まで養育費を送金するなどして、月子に対する扶養義務を履行していたこと、月子には離婚する意思はなく、昭和四六年と昭和五二年に二度の離婚調停を申し立てたのも、離婚が目的ではなく、婚姻関係の修復のためであって、あくまで一緒に生活をすることを望んでいたことからすれば、亡一郎と月子との間に婚姻関係解消の合意がなかったことは明らかである。

(二)  原告は、亡一郎との内縁関係に入るに当たって、戸籍上の妻の存在を知りながら、亡一郎に対し何ら婚姻関係の清算を求めないまま内縁関係に入っており、亡一郎と月子との間の積極的な意思が合致して事実上の離婚状態に至っていたわけではなかったのであるから、右内縁関係は、倫理に反するというべきである。

(三)  月子は、生活保護を受給しているのであるから、現に扶養する必要性が認められる。

(四)  昭和五四年九月に月子が転居して以来、亡一郎が月子と共同生活を営むことはなくなったものであるが、雪子が昭和五九年三月高校を卒業するころまでは、亡一郎から養育費の仕送りがある等、亡一郎と月子との間に交流があったし、その後亡一郎と月子との間に交流が途絶えたというのも、亡一郎が転居先を明らかにしないまま転居をしたことが原因であるから、月子が婚姻関係を継続する意思を喪失したとは到底いえない。

また、月子は、亡一郎の死後相続の放棄をしたが、これは、亡一郎の多額の債務を承継できなかったためであるし、労働者災害補償保険法に基づく請求をしなかったのは、亡一郎が高血圧で生命保険にも加入できないと聞いていたことから右請求ができないと考えていたためであって、それをもって月子が法律上の妻としての地位をすべて放棄していたとはいえない。

したがって、月子が亡一郎との婚姻関係を維持、修復しようとする意思を完全に喪失し、右婚姻関係の解消につき追認しているとはいえない。

3  原告は、亡一郎と内縁関係を持った昭和五六年当時、既に二年前に価格一二五〇万円の自宅マンションを自己資金六〇〇万円を出して購入し、クラブで稼働し、月二〇万円前後の収入があった上、亡一郎が昭和五八年六月にその事業が倒産した際に、亡一郎に対し、五〇〇万円を援助した。これに対し、亡一郎は、原告所有の右マンションに住まわせてもらい、原告に対する経済的給付も合計二五〇万円にも満たず、結果的には右援助に対する返済金にすぎないから、亡一郎が原告を扶養していたという実体は極めて希薄であった。原告自身、亡一郎の死亡後一〇〇万円の自己資金によりスナックを始めるなど生活力も十分持ち合わせている。これらを併せて考慮すれば、労働者災害補償保険法に基づく遺族補償年金の制度の目的に照らし、あえて本件で重婚的内縁関係にある者の受給資格を緩やかに解した上で原告に遺族補償給付を行わなければならない必要性はない。

原告は、亡一郎に対して援助した五〇〇万円の半分余りの金員の返済を受ける利益を喪失したが、遺族補償給付を受けることで右利益の喪失をてん補することは、遺族補償年金制度の目的を逸脱し、許されない。

二  原告の主張

1  遺族補償年金制度の目的、労働者災害補償保険法の社会保障法的性格にかんがみれば、重婚的内縁関係が問題となる場合であっても、被災者と法律上の配偶者との婚姻関係の実体が完全に失われていて、その生活を保障する必要性も失われているときには、内縁関係にあった者を受給権者とすべきである。被災者と法律上の妻との間に婚姻関係を解消することについての合意が必要であるとする被告の主張は不当であり、むしろ、実体を伴う婚姻関係を継続する意思の有無あるいは婚姻関係を修復するための努力の有無を問題とすべきである。

2  亡一郎と月子との婚姻関係は、昭和四六年の別居、少なくとも昭和五四年以降の音信の途絶により、その実体を完全に喪失していた。

亡一郎と月子との婚姻関係は、亡一郎に別の女性との間に男女関係があったこと等が原因で昭和四二年ころから既に破綻しかけていた。その後、昭和四六年には、亡一郎が、その母M子、妹S子とともに、月子と同居していた葛原から真鶴に転居し、いわば親族公認の、正式な別居が開始された。亡一郎は、月子が昭和五四年一〇月に上吉田の市営住宅に転居して以後は月子を訪ねたことがない。亡一郎と月子との間では、別居開始後、遅くとも原告と亡一郎とが同居を開始した昭和五六年秋以降、お互いに相手の住所、連絡方法等が分からず、音信不通状態が続いていた。

亡一郎は、原告との同居後、月子との婚姻関係を修復しようとする意欲がなかった。

月子は、二回にわたって離婚調停を申し立てており、亡一郎との間の不正常な別居状態を解決するための努力を行ったが、それも昭和五二年の調停の申立てを最後に途絶えている。月子は、M子を通じて亡一郎の住居を探す努力も行っていない。

3  原告と亡一郎との間の内縁関係は、約七年間に及ぶ。原告は、亡一郎のために五〇〇万円を提供し、亡一郎は、出稼ぎに出ても、原告に対し、定期的に生活費を送金し、三箇月に一度の割合で原告の下に帰省し、生活費を手渡す等、両者の間の経済的一体性は強固であった。

原告は、亡一郎の母M子の療養期間中その看病に努め、自宅の近くにマンションを借りて食事の世話を行う等していた。

4  亡一郎と月子との婚姻関係は、原告が亡一郎と知り合うはるか以前に破綻状態に至っていたものであり、原告は、その破綻の原因に一切関与していない。また、原告が亡一郎と交際を開始した時点において、亡一郎と月子との間では、音信の途絶及び経済的関係の断絶により、「婚姻関係が実体を失って形骸化し、かつ、その状態が固定化して近い将来解消される見込みのないとき」に該当する状態にあった。

第四当裁判所の判断

一  労働者災害補償保険法一六条の二第一項は、遺族補償年金を受けることができる遺族につき、「労働者の配偶者、子、父母、孫、祖父母及び兄弟姉妹であつて、労働者の死亡の当時その収入によつて生計を維持していたもの」と規定し、同条三項は遺族補償年金を受けるべき遺族の順位を規定していて、民法の相続の規定にゆだねることなく、自ら受給権者の範囲及びその順位を規定している。しかも、同条一項は、受給権者の要件として「労働者の死亡の当時その収入によつて生計を維持していたもの」と規定している。このような規定内容と、労働者の死亡によって失われた同人に扶養されていた家族の被扶養利益を補てんすることを目的とする同条の趣旨とに照らして考えると、同条にいう配偶者とは、原則として、婚姻の届出をした者を意味するが、婚姻関係が実体を失って形骸化し、かつ、その状態が固定化して近い将来解消される見込のないとき、すなわち、事実上の離婚状態にある場合には、婚姻の届出をした者であってももはや同条にいう配偶者には当たらず、重婚的内縁関係にある者が同条にいう「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者」に該当し得るものと解するのが相当である。この判断に当たり、被災者と婚姻の届出をした者との間に婚姻関係を解消することについての合意があることは、必ずしも要件となるものではなく、別居に至る経緯、別居期間、婚姻関係を維持する意思の有無、婚姻関係を修復するための努力の有無、経済的依存関係の有無・程度、別居後の音信、訪問の有無・頻度等を総合考慮して右の判断を行うべきである。

二  前記のとおり、亡一郎は、昭和三九年一二月月子と結婚し、昭和四〇年三月二二日には婚姻の届出をして、母M子と同居しつつ夫婦共同生活を送っていたが、昭和四六年には母M子及び妹S子とともに北九州市小倉北区真鶴に転居して月子とは別居するに至り、殊に、昭和五四年一〇月に月子が上吉田の市営住宅に転居した後は、亡一郎が月子を訪れることは一度もなく、完全な別居状態となったこと、月子は、M子が上富野の家を明け渡した後は亡一郎の所在が全く分からなくなり、亡一郎と月子とは後記の養育費の送金以外は音信不通となったこと、亡一郎は、真鶴に転居後も、月子に対し、家賃相当額として月一万二〇〇〇円を送金し、時々月子を訪れていたが、昭和五四年一〇月以後はそれもなくなり、月子はそれまで勤めていた仕事を辞めて生活保護を受けるに至ったこと、亡一郎の母M子は、昭和五四年一二月一〇日から昭和五八年六月七日まで、月子に養育費を送金していたが、その額が一回当たり一万二〇〇〇円、四万円が多く、一箇月当たりでは一万二〇〇〇円から二万円程度であり、雪子(昭和四一年四月四日生)が高校を卒業する年に終了していることからすると、雪子に対する養育費が送金されていたものと見るのが相当であること、以後亡一郎又はM子から月子に対し、何らかの金員が送金、交付されることはなかったこと、亡一郎に女性関係があったため、月子は、昭和四二年及び昭和五二年の二度にわたり離婚調停の申立てをし、亡一郎との関係修復を求める等したが、目的を達成できないまま、申立てを取り下げ、以後は亡一郎との関係修復を求める等の行動に出ることはなかったこと、他方、亡一郎は昭和五六年一一月以降原告と内縁関係に入り、原告において亡一郎の母M子の療養看護に努め、食事の世話をし、亡一郎は、原告に対し、出稼ぎ先から定期的に生活費を送金していた等、夫婦共同生活を送っていたものであること、以上のとおり認めることができる。

亡一郎の母M子が前記のとおり月子に養育費を送金していたのは亡一郎の意思に基づくものであると考えられ、亡一郎は、昭和五八年六月までは雪子の養育費を送金していたものというべきである。

これらの事実によれば、亡一郎と月子とは昭和五四年一〇月以降完全な別居状態になり、亡一郎が雪子の養育費を送金していたという事情はあるものの、それも昭和五八年六月をもって終了し、以後は亡一郎と月子とは全く交流がなく、音信不通のまま長年が経過したものであり、他方、亡一郎は原告と内縁関係にあって夫婦共同生活を送っていたものということができるから、以上を総合的に考慮すれば、遅くとも亡一郎が昭和六三年四月に死亡した時点までには、亡一郎と月子との婚姻関係は実体を失って形骸化し、かつ、その状態が固定化して近い将来解消される見込のないとき、すなわち、事実上の離婚状態に至っていたものということができ、他方、原告は、亡一郎と内縁関係にあり、その収入によって生計を維持し、「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者」であったということができる。

月子は、原告から人を介して連絡を受け、亡一郎の葬儀に雪子とともに駆けつけており、最後まで戸籍上の婚姻関係を維持するつもりであったことも事実であるし、また、月子が生活保護を受けていることからすると、右のように解することは、あたかも法律上の妻の犠牲において内縁の妻を保護する結果となるかのような観がある。

しかし、労働者災害補償保険法一六条の二第一項は、婚姻の届出をした配偶者であっても、「労働者の死亡の当時その収入によつて生計を維持していたもの」であることを要件としており、月子は遺族補償年金の受給要件を満たさないものである。また、月子の気持ちは尊重されてしかるべきではあるが、同条は、労働者の死亡によって失われた同人に扶養されていた家族の被扶養利益を補てんすることを目的とするものであり、月子の気持ちを尊重して原告の受給権を否定することは、労働者災害補償保険法の制度の趣旨を損なう結果となる。

したがって、右の各事情は、前記の判断を左右するものではないというべきである。

三  以上のとおり、本件処分には労働者災害補償保険法一六条の二第一項の定める要件の認定を誤った違法があり、原告の請求は理由がある。

(裁判長裁判官 髙世三郎 裁判官合田智子及び裁判官中園浩一郎は、いずれも差し支えにつき署名押印することができない。裁判長裁判官 髙世三郎)

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